親の愛、子どもに届いていますか?

 「やる気」のある子どもは自分で考え行動しようとするので、親としては頼もしい限りですが、その「やる気」には「正常な心」が働いていなければなりません。

 

 「正常な心」とは、うれしいときにはうれしいと表現できる心、親の愛情を素直に受け止め、家庭の大切さを理解し、家庭のために貢献できる心です。親の喜びや悲しみ、うれしい思いを素直に感じ取れる心をもっている人は、自然に「やる気」が育ってくるのです。

 

 真に「やる気」のある子になるためには、親の「真の愛」が必要です。ここで言う「真の愛」とは、子どもに対する親の愛が相手に届いていることを意味しています。

 

 子どもに正しく届いている愛のことを、親の「真の愛」と表現しているのです。相手を「愛する」ことは重要ですが、その愛が、きちんと「相手に届いて」いなければならないということです。

 

 子どもを愛していない親はいないと思いますが、子どもが親の言うことを聞かなかったり、反抗したりしたとき、「本当に自分はこの子を愛しているんだろうか」と、親として自問することもあるでしょう。特に、子どもとの間にあまりよい思い出がない場合、例えば子どもから暴力を振るわれたりしている場合などは、親が子どもに拒否反応を覚えることもなくはありません。

 

 それでも親は一生懸命子どもを愛そうとするわけですが、その愛情が子どもに届いているかどうかは別です。親が子どもを愛することと、愛する気持ちを子どもに伝えることは別なのです。日本人はどちらかというと、子どもに対する愛情表現が下手な人が多いようです。ですから、どうしたら親の愛情が子どもに届くのかということについて研究し、学ばなければなりません。

 

 また、学校では算数や国語、理科などを「教える」ことが中心であり、家庭では子どもが「育つ」環境をどうやって作るかということが中心になります。「教える」責任の主体は学校にあり、子どもが「育つ」責任の主体は家庭にあるわけです。

 

 親は子どもに比べて、経験や知識、失敗談、成功例などをたくさんもっているので、どうしても「教えなければいけない」と思いがちです。そのため、子どもの「育つ」環境づくりは後回しになり、子どもに「教える」ことが中心になってしまうのです。

 

 しかし家庭の責任は、子どもが正しく育つ環境をつくるところにあるということを、ぜひ忘れないでほしいと思います。

 

 「教える」場合、意識は自分(親)にあります。子どもに一生懸命教えようとして、子どもがそれを理解できないでいると、いらいらして、「分かったの? ちゃんと聞いているの!」と怒ってしまうのです。

 

 また「教える」ときは、教えている側の親の心が満たされることが多いものです。子どもが「3+3=8」とでもしようものなら、「違ってるじゃないの!」と矢も楯もたまらずに指摘してしまいがちです。教えることで、親の心が満足するからです。

 

 私の息子が中学生のときでした。勉強せずに遊んでいたので、「テレビやゲームばかりやっていて勉強しないと、駄目な人間になるぞ。親の気持ちが分からないのか!」と怒りました。すると息子は、「お父さんは自己満足で怒ってるだろう」と言い返しました。私が「親を馬鹿にしているのか」と声を荒げると、息子は「お父さんは怒ったから気が済んだだろう。でも、怒られた僕の気持ちはどうなるの」と言うのです。

 

 あとでじっくり考えたとき、息子の言うとおりだったと悟りました。私は自分の気持ちをぶつけただけであって、子どもに何のよい影響も与えなかったのです。「教える」ことは、自分に焦点が合っているため、自己満足に陥りやすいのです。

 

 それに対して「育てる」場合、焦点は相手(子ども)にあります。子どもが「育つ」のは、子どもの心が満たされたときなのです。

 

 家庭で親が目的に向かって成長して行く、その生き方こそが子どもの育つ環境づくりになります。「子どもは親の後ろ姿を見て育つ」とよく言われます。実際、農家や商家などのように、家庭で親の働く姿を見て育った子どものほうが、そうでない子どもより、よく育つ場合が多いとも言われます。

 

 子どもがよく「育つ」には、子どもの心が愛情で満たされなければなりません。ひたむきに生きる親の姿を通して、子どもは親の愛を感じ取っていくのです。理想家庭を目指して一生懸命歩む親の姿、親の努力自体が子育てです。いちばんの子育てとは、家庭を理想家庭にすることなのです。

 

多田聡夫

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